20190507 会釈の効能

常々道を歩くときに、まちにはとんでもない馬鹿や阿呆や致命的に危機管理能力がない人間がうじゃうじゃ溢れているという考えのもと、慎重に歩き、譲れる道は譲るようにしている。自己防衛は重要と考えます。私が死んだら悲しむ人間がいるので。

そういうわけで道を譲ることが多いのだが、譲ったときに会釈のひとつも返さない人間というのが稀にいる。別に自身の安全のために道を譲っているのでお礼を言われたい訳ではないのだが、なんとなくムッとする虫の居所の悪い日もある。

そんな日には決まって、昔ATMで見た男の子を思い出すのだった。

 

あの日は確か寒い冬の日で、多分年末かなんかでATMがめちゃくちゃに混み合っていたのだが、大学生くらいの男の子が記帳にかなり時間がかかっていて、何ページ繰っても繰っても機械のガチャンガチャンという音が止まない。男の子と私の間にも三人ほど列に並んで待っている人がおり、中には明らかに気の短そうなイカつい親父もいたりして、全員まだかまだかと苛ついているのは目に見えて明らかであった。

立派だったのは件の男の子で(記帳をサボっていたのだから立派とは言い難いのだが)、1ページ記帳が終わり次のページに行く音がする度に、「ああっ、まだありました、すみません、すみません…」とこちらに頭を下げるのである。最初の数ページは腹を立てていたこちらも、記帳のページ数が10ページを超えた頃になると、男の子の情けない顔も相まってどんだけ記帳してないのあんたは、と可笑しくなってくる。終いには記帳が次のページに行くとあぁっ、まだか!と一緒に悔しがる始末である。ようやく記帳が終了したときには謎の一体感が生まれていた。イカつい親父も笑っていた。

 

私が思うに、相対した人間に感謝や謝罪の意思を伝えることは、相手の気分を害さないことは当然であるが、自分を守ることにも繋がると思う。極論であるがあの男の子はイカつい親父に殴られる未来もあったと思う。なにぜまちにはとんでもない馬鹿や阿呆や致命的に危機管理能力のない人間がうじゃうじゃ溢れているのだから。(イカつい親父さん、見た目で判断してしまい申し訳ございません)

会釈くらいなんぼでもすればよいのだ。首の筋肉をちょいと動かすだけである。